新コラム【たまゆらあーと】Vol.7
スゥインギング・ロンドンを追体験

「マリー・クワント展」

皆さま、こんにちは。松井亜樹です。
『マダム・モネの肖像』(単行本2018年、文庫改訂版2020年、幻冬舎刊)では、クロード・モネと妻カミーユの出会いから別れまでを印象派誕生の軌跡と共に追いました。
こちらでは、開催中の展覧会やアートな話題をご紹介していきたいと思います。

Bunkamuraザ・ミュージアムで『マリー・クワント展』が始まりました。

会場を巡り始めてすぐ、衝撃をもって感じたのが「これは私の知っているマリークヮントではない」ということ。あの、かわいらしいデイジーが付いたリップやネイル、チークやアイシャドウには、若い頃ずいぶんお世話になったように思うし、このごろ見掛けるTシャツやポーチも、「若い子が持ってたらかわいいよね」と思っていました。

1965年頃のストッキングやタイツのパッケージ

でも、違うんです。
それはこの「マリー・クワント」ではないの。
会場に満ちていたのは、すばらしく自由で勢いある時代の空気。軽々とファッション革命を成し遂げたチャーミングな女性の物語でした。いや、「軽々と」というのは語弊がありますね。爽やかで明るい彼女の風貌からそんな風に感じられるだけで、人知れぬ苦労も山ほどあったに違いないのです。

手前中央がマリー・クワント

「今、私たちが着たい服」

マリーは一体何をしたのか?

界で初めて、女の子たちにミニスカートをはかせました。自分がお手本になって。膝が見えるとかそんなもんじゃなく、膝上20cmのミニです。彼女が大好きだったイギリス車“ミニ”から取って「ミニスカート」。
男性のスーツ生地を「私たちにも寄越せ」とばかりに、ミニマルでおしゃれなドレスやスーツに仕立てました。
それらを量産し、若い女の子たちの手の届く価格で販売しました。
ライセンス契約を結び、世界中にデイジーの付いた洋服、下着、化粧品、インテリアなどを行き渡らせました。

現代なら珍しくもないそれらのことが、伝統という壁に大きな風穴を空け、後進たちを導いていくのです。

それは、“スウィンギング・ロンドン”と名付けられた時代のこと。ロンドンのストリートカルチャーが世界を席捲しました。世界中がビートルズに熱狂し、ツイッギーのはくマリーのミニスカートが飛ぶように売れ、マリーのヘアカットを担当したヴィダル・サスーンが超売れっ子になりました。

ベストとショートパンツのアンサンブルを着るツイッギー、『サンデー・タイムズ』(1966年10月23日付)、写真:テレンス・ドノヴァン
マリー・クワントの髪をファイブポイントカットにするヴィダル・サスーン、『デイリー・ミラー』(1964年11月12日)

いやいや、女性服の革命ならシャネルでは?
確かに彼女はコルセットから女性を解放しましたね。スポーツウェアに使われるジャージーやツイードを使って、機能的で美しい服を作りました。あの香水No.5も。それが1910年代から第二次世界大戦勃発頃までのこと。

ところが!第二次世界大戦後、スパイ疑惑もあってシャネルが低迷している間に、かのクリスチャン・ディオールなどが、コルセットにフリフリのスカートなど、往年の“女性らしい”スタイルを流行させていたのです。この流行り廃りの激しさ、文字通り“ファッション”ですね。

マリーは言います。
「パリから2年遅れの流行なんて要らない」「ファッションはなりたい自分を表現するためのもの」「私たちは自由に、自分らしい服が着たい」。

1966年10月20日号『エル』掲載「イエス、英国モードはあなたに似合う」より。写真:テレンス・ドノヴァン

オシャレな女子大生からミニの女王へ

ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで美術などを学び、帽子店で経験を積んだ彼女は、大人たちの押し付ける“女らしさ”やお仕着せのファッションに辟易していました。そんなとき、長身で弁舌爽やかなアレキサンダー・プランケット・グリーンと出会い、恋に落ちます。

さらにビジネスに長けたアーチー・マクネアも引き込んで、5000ポンドを出し合い、1955年、チェルシーのキングスロードに「BAZAAR」という店を開店しました。3人はそれぞれの得意分野を活かし、強力なチームになります。

当初は、バイヤーとして自分の気に入るものを買い付けては販売していたマリーですが、やがてデザインも手掛けるようになります。そのすっきりとモダンでおしゃれなデザインに「私たちが着たかったのはこんな服!」と、女性たちが群がりました。

展示会場には、所有者たちから集められた当時の貴重なドレスやスーツが約100点並びます。かわいいのですよ、これが。若い女の子たちのスラリと伸びた足や、スレンダーなボディなら、ひときわ魅力的に見えたこと間違いなしです。

左/ポケット付きドレス、1967年。右/Vネックドレス、1966年。いずれも素材はジャージー。マリークヮントアーカイヴ
左/ポケット付きドレス、1966年、V&A:T.86-1982。右/スケータードレス、1967年、寄贈:ジャネット・フラッド、V&A:T.79-2018。いずれも素材はジャージー
左/フード付きドレス、1967年。右/ドレス「フッター」、1967年。いずれも素材はジャージー。マリークヮントアーカイヴ

ウーマンリブの扉を開く

革命には反対勢力が付きもの。マリーは、保守層から批判や嫌がらせを受けながらも、「今、私たちが着たい服」を貫きました。1966年には「輸出拡大に貢献した」として勲章を受けます。その授賞式に着ていったというワンピースも展示されていますが、あなたならどんな感想を抱くでしょう。とにかく、新しかったことは間違いありません。

そしてミニスカートは社会現象に。
そういえば、私の幼少期、母や叔母や友達のママたちのスカートは短かったですね。1969年、訪米した佐藤栄作首相の妻・寛子さんのミニスカート姿は伝説となっています。駐米大使夫人のアドバイスに従ったというのですから、当然アメリカでもミニスカートブームだったのでしょう。

マリーの息子が「ウーマンリブを待っていられなかった」という彼女の言葉を記憶していますが、女性起業家として時代の気分を反映するミニスカートやパンツを作り続ける彼女は、若者たちを鼓舞する存在にもなりました。1966年、受勲の年に出版された自叙伝は、若い女性たちに希望を与えます。マリーのファッションで身体を解放された若者たちが、ウーマンリブ運動を先導しました。

マリーが、男性のスーツ生地を女の子たちのドレスに使ったのも、それらに「イングランド銀行」「イートン」など風変わりな名前を着けたのも、男性社会への風刺だったことでしょう。何しろ、イギリスでさえ、女性だけで銀行口座を開設することもできない時代だったのですから。

「イングランド銀行」、「イートン」を着たメラニー・ハンプシャーとジル・ケニントン、『ライフ』(1963年10月18日号)、写真:ノーマン・パーキンソン

現在、日本にはマリークヮントを継承するマリークヮント コスメチックス社の店舗が100以上あり、現在92歳のマリーは特別顧問としてラインナップに目を通すそうですが、1960年代、ロンドンのキングスロードから始まった革命の空気までは、残念ながら伝えてくれません。

スウィンギング・ロンドンという時代を、私たちの知らないマリークヮントを、当時の衝撃や熱気を体感してみたいと思うなら、それはぜひ会場で。

同じBunkamuraのシネマでは『マリー・クワント スウィンギング・ロンドンの伝説』を上映中です。展覧会で興味を持った方は映画もぜひ! 当時の活気や、マリーのもたらしたものの大きさがわかります。そして、どんな革命も、やがて古びて歴史のひとコマになるという切ない現実も。

「自由に、自分らしく」。
ファッションも心も、そうありたいですね。

ショップで見掛けたデイジーのマグネットがあんまり可愛かったので3枚、それから紅茶も買いました

※マリー・クワントは個人名、マリークヮントはブランド名です