「たまゆら あーと」Vol.15

田中一村展
孤高の魂の軌跡

皆さま、こんにちは。松井亜樹です。
『マダム・モネの肖像』(単行本2018年、文庫改訂版2020年、幻冬舎刊)では、クロード・モネと妻カミーユの出会いから別れまでを印象派誕生の軌跡と共に追いました。
こちらでは、開催中の展覧会やアートな話題をご紹介していきたいと思います。

東京都美術館で特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」開催中です。

生前には個展が開かれることもなく無名のまま、しかしひたむきに制作を続けて生涯を終えた一村。死後、にわかに評価が高まった彼の、神童と呼ばれた幼少期から、晩年を過ごした奄美大島での集大成と言える作品群までを紹介する過去最大規模の回顧展です。

神童「田中米村」

1908(明治41)年7月22日、栃木市に彫刻家・田中稲邨の長男として生まれた一村(本名・孝)。5歳からは東京で育ちました。父の手ほどきもあったのでしょう、幼い頃から画才を発揮し、「米村」の号を得ます。

数え8歳(満6、7歳)で描いた短冊の表《紅葉にるりかけす/雀》と裏《柳にかわせみ》

展示の冒頭、米村の画号を記した数え8歳(満年齢6、7歳)の作品を観て、感嘆の声を挙げる人の多いこと。ただただ「スゴいねぇ」とため息が出るのです。この年齢でここまで巧みな筆遣いを身に付けてしまって、この人の画業はこの先一体どうなるのか、どのように伸びていくものか、そんな不安もよぎるほど。

10歳の作。《桔梗に蜻蛉図》大正8年夏 個人蔵

1926年、難なく東京藝術大学の日本画科に合格してしまいますが、ほんの2カ月で「家事都合」と称して退学してしまいます。奇しくも同じ年の5月1日、同展の会場であり東京藝術大学に隣接する東京都美術館は開館したのでした。

退学の理由は本当のところ、何だったのでしょう。

一村にとって、繰り返す線描の練習など馬鹿馬鹿しかったかも知れません。退学した年の11月には「新興文人画展」に出品。12月には政財界人らに向けた頒布会も開催され、多くの作品を制作・出品しています。すでに多くの人から作品を望まれていた彼には、自作の構図や色彩にケチを付ける「学校」は耐え難かったかもしれません。「神童」とは、きっと生き辛いものなのでしょう。

ちなみに、同期入学には東山魁夷らがいました。その後の境遇の、あまりの隔たりを思わずにはいられません。

最初の展示室には10代、20代の作品が並びます。年齢に似合わぬ老成した筆運びと作品に込められた熱量には驚かされますが、気になる部分もあります。

左/《蘭竹争清図》 大正15(1926)年夏 千葉市美術館、右/《白菜図》 大正15(1926)年5月 個人蔵

この人は、恐らくそれが好みであり癖なのでしょうが、線を描き過ぎてしまいます。描くことへの旺盛な意欲そのままに、ひたすら線を引き塗り込める。若い頃の作品は、荒々しい線描の多さゆえに、構図に多少難が生じているように見えます。所謂「日本画」から想像される「余白」のない作品も少なくありません。この有り余るエネルギーがどのように昇華されていくのか、むしろ期待も高まります。

試行錯誤の千葉時代

第2展示室は、29歳で移り住んだ千葉での作品を紹介しています。27歳のときに父を亡くし、母方の親戚を頼ったのでした。農作業や内職で生計を立て、支援者にも支えられながら制作を続けます。当時、生活のために描いたであろう仏画や、節句や季節ごとの掛け軸などが紹介されています。

《忍冬に尾長》1950年代(昭和31年頃か) 個人蔵

戦後まもない1947年、数え40歳で、「田中米村」から「柳一村」に画号を改めます。この年、川端龍子主宰の青龍展に《白い花》が入選。結果的にはこれが、最初で最後の中央画壇での入選となりました。翌年、画号をさらに「田中一村」と改めています。

《白い花》昭和22(1947)年 田中一村記念美術館蔵

この時期、青龍展入選の甲斐もあってか障壁画や天井画を依頼され、支援者たちへの旅土産として色紙絵を描くなど、さまざまなスタイルに挑戦し、豊かな成果が見て取れます。

石川県羽咋郡「やわらぎの郷」聖徳太子殿 内陣天井画 昭和30(1955)年

私が特に心惹かれたのは、ほのぼのとした色紙絵。特に夕暮れの風景画です。穏やかな逆光に浮かび上がる情景はキャリアの所々に遺され、最晩年の《アダンの海辺》への序奏のようです。

《僻村暮色》昭和30(1955)年 個人蔵

この頃、日展や院展に出品を続けるもののすべて落選し、それらはすべて自ら処分してしまいました。それでも描き続け、50歳で当時日本最南端だった奄美群島へと向かうのです。彼の人となりを見込んだ数少ない支援者からの助けがあって実現したことでした。

奄美の光に導かれて

最後の展示室は、晩年、奄美大島で描いた作品群です。一村は5年間、大島紬の染色工として働き、制作費を蓄えると制作に専念しました。

数え8歳で大人びた南画を描き、「どう伸びていくのか」と(私だけが?密かに)危惧した一村の画業。ここにその、うれしくなるような集大成がありました。線も色彩も構図も、すっかり洗練され「これぞ一村」と言うべき世界が広がります。もちろん、たゆまぬ研鑽あってこそですが、奄美の自然や降り注ぐ光が彼の芸術を昇華させたのでしょうか。

《アダンの海辺》昭和44(1969)年 個人蔵

今回、展覧会のポスターにもなった《アダンの海辺》。《不喰芋と蘇鐵》と共に「閻魔大王への土産品」と表現した本人の言葉通り、悔いのない制作になったのでしょう。唯一無二の美しい作品です。さて、この作品で一村が描きたかったものは何でしょう? それは、鑑賞者には少しばかり意外なものでした。展示に添えられた自筆の文書から、描き手ならではの視点が窺えますよ。

《不喰芋と蘇鐵》昭和48(1973)年 個人蔵

ここで、この人が描かなければ生まれなかったと信じられる作品。それらが画家の生前には顧みられることもなく、ただ自己との闘いと一途な努力の成果であったことを知ると、作品は神々しさを増すのです。

《初夏の海に赤翡翠》昭和37(1962)年頃 田中一邨記念美術館

1977年9月11日、一村は、あばら家と言って差し支えないような自宅で、おそらくいつものように自分だけの夕食を準備している最中、心不全で亡くなりました。69歳でした。東京から取り寄せたばかりの絵の具と領収書が遺され、今回展示されている《枇榔樹の森に赤翡翠》と《白花と瑠璃懸巣》は未完のままです。

制作中の田中一村

「見せるために描いたのではなく、私の良心を納得させるために」描いたと語った一村。それはどれほど孤独な歩みだったことでしょう。一方で「最後は東京で個展を開き、絵の決着をつけたい」という願いも抱いていました。生前それが叶うことはなく、今回がいわば凱旋回顧展となりましたが、やはり残念。

一村の一途な想いと不断の努力、その成果である力作の数々を知る奄美大島の知人たちは、その三回忌に3日間だけの「田中一村画伯遺作展」を開催。地元メディアが取り上げ、5年後の1984年、NHKで全国放送されると大きな反響を呼んだのです。

没後四半四半世紀を経て、奄美大島には「田中一村記念美術館」が創設されました。島の人たちは今も、9月11日の命日を「一村忌」として故人を偲んでいます。

田中一村記念美術館ホームページより

展示の最後に、一村が愛した奄美大島の風景が4Kビジョンで紹介されています。彼の作品はいつか、描かれたこの場所で鑑賞したいものですね。