「たまゆら あーと」Vol.9

奇才ガウディとサグラダ・ファミリア
創造の源泉と軌跡をたどる

皆さま、こんにちは。松井亜樹です。
『マダム・モネの肖像』(単行本2018年、文庫改訂版2020年、幻冬舎刊)では、クロード・モネと妻カミーユの出会いから別れまでを印象派誕生の軌跡と共に追いました。
こちらでは、開催中の展覧会やアートな話題をご紹介していきたいと思います。

東京国立近代美術館で「ガウディとサグラダ・ファミリア展」が開催されています。100点を超える図面、模型、写真、資料や最新の映像を通して、ガウディの建築思想と造形原理、後世に与えた影響を考察しています。

ガウディといえばサグラダ・ファミリア。

そう連想される方が多いことでしょう。たくさんの塔を持つ特徴的な外観、印象的な降誕の正面、高さ45メートルに達する樹木状の柱が林立し、無数のステンドグラスからあやなる光が降り注ぐ聖堂。140年以上も建設が続くその歴史。

これほど注目を集める建築物はあまり例がないかも知れません。

サグラダ・ファミリア聖堂内観

サグラダ・ファミリア(1882 -)をはじめ、グエル公園(1900 – 1914年)、カサ・バッリョ(1904 – 06)、カサ・ミラ(1906 – 1910年)など7つの作品群は、「アントニ・ガウディの作品群」としてユネスコの世界遺産に登録されています。

カサ・バッリョ、2階中央ホール

あの歪んで見える窓や壁、柱、塔、屋根などは、一体製作原理のようなものはあるのだろうか。そのひとつひとつを、ガウディがフリーハンドで描いたのだろうか。そもそも、強度計算は成されているのだろうか。動植物を象った模様やシンボルはなぜ生まれたのだろうか。さまざまな疑問や興味が尽きません。

そんな疑問や興味に応えてくれるのが、この展覧会です。

1882年に着工し、完成まで300年掛かると言われていたサグラダ・ファミリアは、2013年に「2026年完成予定」と訂正されました。2026年は、ガウディの没後100年にあたります。コロナ禍でのロックダウンや観光収入の減少などにより工事は遅れましたが、それでも2026年に18本の塔のうち最後の「イエスの塔」完成をめざしています(「栄光の正面」の建設は継続予定)。

140年続いてきたその建設もいよいよラストスパート。
完成した姿を見るその前に、建設の背景、ガウディならではの工法や工夫、秘められた想いに触れてみてはいかがでしょう。

「ガウディ」の誕生

アントニ・ガウディは、1852年6月25日、バルセロナに次いで、当時カタルーニャ地方第2の都市だったレウスで、父方・母方ともに銅細工職人という家系に生まれました。

《ガウディ肖像写真》1878年 アウドゥアルト社 レウス市博物館

バルセロナ建築高等技術学校で建築を学びながら、生活のためにいくつかの建築設計事務所で並行して働き経験を積みます。

1878年、建築士資格取得後まもなく、ガウディはパリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためにショーケースをデザイン。会場に並ぶクラシカルなデザインに対し、メタルフレーム、総ガラス張りのケースは大変モダンで、万博会場最良のデザインと評価されました。実物は消失しましたが、ガウディが名刺裏に書き留めたスケッチが残っています。

《クメーリャ革手袋店ショーケース、パリ万国博覧会のためのスケッチ》1878年 レウス市博物館

この作品が、繊維会社を経営する富豪アウセビ・グエルの目に留まったことが、彼の大建築家への第一歩となります。グエルは、その後40年あまりパトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼しました。

同展ではこの他にも、周囲の風景を含めたスケッチなどが複数展示されています。そのどれもが絵画作品のように美しい。ガウディはやはり、優れた美観の持ち主だったのでしょう。

「神の建築家」へ

1883年、ガウディは若干31歳にして、サグラダ・ファミリアの2代目建築家に就任しました。

この聖堂は、民間カトリック団体「聖ヨセフ信心会」が贖罪教会(信者の献金により建設する教会)として計画したもので、日本語では正式に「聖家族贖罪教会」と言います。

建設資金を信者たちの少額献金に頼っていたため度々資金難に陥り、工事が長期間中断されたり、あの巨大建築に対して僅か10人ほどで作業せざるを得なくなったり、主に経済的な事情で工期は延びていきました。

1926年に没したガウディが生前手掛けたのは、地下礼拝堂と降誕の正面、その上に立つ1つの塔のみでした。他の部分の建設を急がず、限られた資金と工期を降誕の正面に集中させたのは、自身の存命中の完成を諦めると同時に、自身の没後もこの聖堂の建設が継続されるよう、その存在意義を世間に認めさせる意図があったと言われています。

「われわれは聖堂のファサードの1つを完成させた。それは、完成した正面の重要さから、建設の中断を不可能にさせるためである」。その通りの役割を果たしてきたのではないでしょうか。

降誕の正面

1883年の就任当時、ガウディは熱心なカトリック教徒だったわけではありません。しかし、1914年、財政難から建設中止が決定された際には、「報酬もいらない。他の仕事はすべて断る。この聖堂に関わることだけが私の願いであり義務だ」と意思表明し、中止の決定を覆したのです。崇高で偉大な使命のために働き、それが徐々に形として現れる。そんな年月を重ねてガウディ自身も変化し、「神の建築家」と呼ばれるまでになりました。

1936年にはスペイン国内で内戦が起こり、サグラダ・ファミリアも旧体制側建築物として攻撃を受け、ガウディによる設計図や模型もほぼ失われてしまいました。建築続行は不可能と思われるほどの困難に見舞われながら、21世紀の今日、とうとう最終段階を迎えようとしています。

なぜ、それが可能になったのでしょう。
すでに地下礼拝堂が機能していたために、存在意義が認められていたということもありますが、ガウディの熱意が弟子たちを介して広く伝わったことと、やはり魅力的な計画だったことが大きな要因と言えるでしょうか。彼の遺したわずかな資料を元に、現在で9代目となる代々の建築家たちが設計し直し、模型を造り直し、一歩ずつ完成に近付いてきました。

「人間は創造しない」

「創造は、人を介して途絶えることなく続くが、人間は創造しない。発見し、そこから出発する」。天才・奇才と謳われるガウディのこの言葉は、自然の摂理の前には謙虚であるよう私たちを諭すかのようです。

自然を「常に開かれて、努めて読むのに適切な偉大な書物である」と語った彼は、身近な動植物、洞窟などの自然造形から多大なインスピレーションを得ていました。依頼を受けた邸宅の近隣によく見られる花を、その外観デザインに取り入れたりもしています。インテリアや家具、小物に至るまで、彼の作品はどれも、呼吸をしているように見えてくるから不思議です。

《バルセロナ、カサ・ミラ、円形パティ》1906 – 10
《カサ・バッリョ、ベンチ(複製)》1984 – 85 西武文理大学
左/カルロス・マニ、アントニ・ガウディ《サグラダ・ファミリア聖堂、クリプタの磔刑像》1906年 サグラダ・ファミリア聖堂、右/《サグラダ・ファミリア聖堂、クリプタ付属の卓上燭台(十字架付燭台)》1898年頃 サグラダ・ファミリア聖堂

また、スペイン人である彼について考えるとき、800年に及ぶイスラム支配が及ぼした特異な文化的背景も無視できません。イスラム建築の傑作アルハンブラ宮殿を有する国の建築家としての遺伝子が、タイル被覆の鐘塔などに現れていると言えるでしょう。

「受難の正面」鐘塔頂華(部分)

自然観察を重視していたガウディは、自然造形の外観だけでなく、その構造を支える幾何学からも大いにヒントを得ました。「自然の法則に合致しないものは成功しない」と主張し、パラボラ(放物線)アーチを好んで取り入れ、重力を利用した逆さ吊り模型を用いて設計を行いました。

逆さ吊り模型を用いた実験の展示

内包する多様性

140年以上も建設が続けば、様式やデザイン、工法はさまざまに移ろいます。ガウディはその年月を見通したような言葉を遺しました。

「モニュメントの精神は常に守るべきだが、作品の生は世代から世代へと受け継がれ、これにより生き、形になっていかなければならない。われわれの大聖堂は主にその多様性によって畏怖の念を起こさせると同時に、喜びも与える」。

ガウディが携わった43年に渡る建築年代の違いは、そのまま彼自身の成長の記録でもありました。例えば「降誕の正面」は1890年代に計画され、「受難の正面」は1917年に最終案が公表されています。その間に彼は、現在世界遺産に登録されているさまざまな建築物を手掛け、そこで得た知見をサグラダ・ファミリアに活かしたのです。

また、地下礼拝堂は、前任者の制作を引き継いだゴシック風のクラシカルな造りですが、20世紀後半にジュゼップ・マリア・スビラクスが手掛けた受難の正面の彫刻は、キュビズム的な外観を呈しています。それらの多様性が、1つの建物に共存していることも、万民の聖堂に相応しい魅力と言えるかも知れません。

ジュゼップ・マリア・スビラクス《サグラダ聖堂、受難の正面:ユダの接吻》1992年 サグラダ・ファミリア聖堂
ジュゼップ・マリア・スビラクス《サグラダ聖堂、受難の正面:いばらの冠のイエス》1966年 サグラダ・ファミリア聖堂

1990年代以降は、コンピューターによる計算や設計、3Dプリンターを用いた模型製造などが取り入れられ、作業効率も格段に上がりました。ガウディの遺言を守りつつも、建設は最新技術やアートを用いて継承されています。

人智の奇跡

1926年6月7日、73歳のガウディは日課のミサに向かう途中、段差に躓き転倒。通り掛かった路面電車に轢かれ、3日後に息を引き取りました。本人の遺言に従い、葬儀は質素なものでしたが、棺を乗せた馬車には1.5キロにおよぶ行列が続き、周囲を市民が埋め尽くしたといいます。

その亡骸は、彼自身が心血を注いだサグラダ・ファミリアに埋葬されています。

貧しい人々が、タバコを1本我慢することで納められる僅かな献金。時に巨額の献金や、1990年代以降は観光収入があったとしても、その始まりは、そうした少額献金の積み重ねでした。

自ら完成を見る可能性のないものに生涯を掛けたガウディと、その遺志を継いだ無数の人々の知恵と努力によって、140年以上のときを経て巨大な聖堂は完成しようとしています。その事実こそ、まさに人智の奇跡。私たちはそれを目撃できるかも知れないのです。

《サグラダ・ファミリア聖堂全体模型》スケール:1:200 2012-23年 制作:サグラダ・ファミリア聖堂模型室 サグラダ・ファミリア聖堂