「たまゆら あーと」Vol.11
巨匠の革新性に触れる
「モネ 連作の情景」
皆さま、こんにちは。松井亜樹です。 『マダム・モネの肖像』(単行本2018年、文庫改訂版2020年、幻冬舎刊)では、クロード・モネと妻カミーユの出会いから別れまでを印象派誕生の軌跡と共に追いました。 こちらでは、開催中の展覧会やアートな話題をご紹介していきたいと思います。
上野の森美術館で「モネ 連作の情景」展が始まりました。印象派の巨匠クロード・モネが連作という、当時、西洋絵画にはなかった手法に至った歩みを展覧します。
会場入口から展示室に向かう壁面には、モネの終の棲家であり、晩年、創造の源となったジヴェルニーの水の庭の映像が映し出され、床面には睡蓮の池を描いたモネ作品が投影されています。こんなところを渡って行けるなんて、カエル? チョウかな? 不思議な気分で睡蓮の池を渡り、さあ、いよいよモネの世界へ。
印象派以前
最初の展示室は、ジヴェルニーからはだいぶ遡り、印象派以前の初期作品を紹介しています。
ここで注目すべきは『昼食』。モネが黒を用いて古典的手法で描いた大作ですが、今回が初来日です。この作品がサロン(官展)に受け入れられなかったことが、独自の印象派展開催のきっかけになったというもの。
当時のフランス中流家庭の典型的昼食シーンを描いたもので、ごちそうを前にはしゃぐ幼い男の子と見守る若い母親、訪ねて来たらしい黒衣の女性、奥には女中らしき姿が見えます。ちなみに手前の女性2人は、妻カミーユがモデルを務めたと言われています。
幸せそう? そうですね、モネ一家はこのとき、束の間の安息を得ていました。実はこの1868年から翌年に掛けては、彼の人生に何度か訪れた最初の困窮期でした。
1865年、24歳にして2作品がサロンに入選し、画家として順調に歩み出したかに見えたモネですが、すぐに芸術アカデミーが正当と認める題材や手法に飽き足らなくなってしまいます。そう、当時はアカデミーに認められる作品を描くには、あれやこれや守るべきお作法があったのですね。それらを破ったモネたちが「印象派」になるわけですが、そのお話は長くなりそうですのでいずれまた。
『昼食』が落選したのも、こうした大作に描かれるべき神話や歴史の一場面でなく、現代の日常的で卑俗な情景を選んだこと、また当時はタブーとされていた筆跡を残した仕上げだったことなどが考えられます。
アカデミーに反旗を翻す画家と判断されたモネは、1867年以降、なかなかサロンに受け入れられません。当時、画家がその作品と実力を示すのはサロンしかなく、落選は画家として生きる術を失うことでした。さらに悪いことに、恋人カミーユが妊娠。実家から交際を反対され、経済的援助を打ち切られてしまいます。
1868年には一時自殺も考えるほど追い込まれますが、ある実業家の援助を得てようやく、エトルタで束の間の安息の日々を過ごしたのでした。その後も困難は続くのですが、そんな苦境は作品からは感じられません。わずかな例外を除いて、モネは作品に苦難を持ち込まない画家でした。
おそらくは恋人カミーユと暮らし始めた頃に描いた『桃の入った瓶』もぜひご覧いただきたい作品です。やはり、後のモネ作品には見られない黒を用い、シロップに漬かった桃と、まだ作業台に載った桃が見事に描き分けられています。のちの作風からは想像しにくい作品ですね。
印象派の誕生
1870年の『昼食』落選以降、サロンに受け入れられることを諦めたモネは、仲間たちと独自の展覧会を構想し、1874年に初めて実現します。ちなみに、来る2024年は第1回印象派展開催から150年目のメモリアルイヤーに当たります。
そのとき展示された『印象、日の出』が、批評家ルイ・ルロワに「印象が描かれているというわけか」「描き掛けの壁紙の方がまだましだ」と揶揄されて大きな話題になり、「印象派」という呼称が生まれ、定着していくのです。
好景気と増えつつあった印象派支持者に支えられ、モネが幸せを満喫したのが1871年末から1877年まで暮らしたパリ郊外のアルジャントゥイユ。そこにはマネやルノワール、その他印象派の仲間たちも集いキャンバスを並べました。
今回展示されている『アルジャントゥイユの雪』を見ると、モネの豊かな雪景色の表現を味わえます。印象派はチューブから出したそのままの色を重ねると言われますが、この作品の中の雪色は実に複雑。雪景色はただチューブから出したままの白では表現し得ないのですね。
『モネのアトリエ舟』も展示されています。このアトリエ舟は先輩ドービニーに倣ったもの。水面をもっともっと近くから見たいと願ったモネの、お気に入りの作業場でした。
不況の煽りを受けて、再び経済的に行き詰まったモネは1878年、より小さな町ヴェトゥイユに移り住みます。翌年、妻カミーユが32歳の若さで病没するのもヴェトゥイユでのこと。今回は、ヴェトゥイユで描かれた作品が比較的多く展示されていて、印象派らしい筆遣いを堪能できます。
連作手法を確立
モネは、続く1880年代の大半を旅の中に過ごします。特にノルマンディーのエトルタはお気に入りの制作スポットでした。ドラクロワ、クールベら巨匠も描いた場所『ラ・マンヌポルト』など、同じモチーフを繰り返し描くようになります。
セザンヌが「モネは眼にすぎない。しかし、何という眼だろう」と感嘆した言葉が残っていますが、モネのその鋭敏な視覚で見ると、同じモチーフが季節により天候により時刻により、まるで違って見えたのでしょう。その違いを描き分けたのが連作です。それらを並べて見たときの視覚効果に自身が心震わせたに違いありません。モネは、連作を散逸させることなく一堂に展示させたいと望んでいました。
モネはすでに1885年、エトルタで複数のキャンバスを持ち歩き、時刻によって描き分けていたと言われますが、最初の連作とされるのは主に1888年以降取り組んだ『積み藁』です。今回、3点のみの展示ではありますが、それぞれ巧みに描き分けられていますね。
一番の見どころと感じたのが、ほぼ同じ構図の3点『ウォータールー橋』です。同じ構図であるにも関わらず全く異なる3点が1つの壁に並べられていて見応えがあります。まさに、モネの鋭敏な感覚と描出テクニックの賜物ですね。
モネは連作のキャンバスをアトリエに並べ、相互の効果を際立たせるために特定の色彩を強調するなど手を入れたといいます。それは、形あるものを忠実に再現する古典の手法はもちろん、目の前のものを光も風も見えたままに描くという印象派の画法をも逸脱し、モダンアートの領域に踏み出していました。
展示室内を数歩ずつ進むことで、同じ場所で移ろう季節、天候、時間を感じることができる連作の手法と展示。その没入感をぜひ楽しんでください。
最後にして最大のテーマ「睡蓮」
連作の成功で巨匠の地位を確立したモネは1883年、やはりセーヌ河沿いのジヴェルニーに移り住み、大変気に入ったその土地と家を1890年には購入しました。
花の栽培を熱心に研究し、方々から種を分けてもらったり購入したりして、モネの構想通りに花々が咲き乱れる花の庭を造ります。それは「モネのパレット」とも呼ばれ、もちろん主要な画題にもなりました。
1893年、土地を買い増して、セーヌ河の支流から水を引き大きな池を造ります。モネの興味は、その「水の庭」に移っていきました。そこには睡蓮を植え、太鼓橋、藤棚を配し、柳や竹、桜、さらに朝顔や水仙なども植えました。それは、モネが浮世絵から得た日本のイメージだったと言えるでしょう。
やがてモネの視線は庭というより池、さらに水面に集中して行き、その一部だけを切り取った大胆な構図を、大胆な筆致で仕上げるようになります。生涯に残した2000点余りの作品のうち、実に300点ほどが睡蓮を描いたものでした。
それらの、庭でもなく池でもなく、睡蓮だけを大胆に描いた作品群によって、クロード・モネは抽象絵画の祖としても美術史に名を残しています。すでに印象派の旗手であり、西洋絵画史上初の連作手法の確立者でもあったモネ。その実り多い画業は、今でも多くの人を惹き付けています。
これから観覧される皆さんには、できれば平日にいらっしゃることをお勧めします。開催後初の週末に伺ったところ、会場を出てショップに入るまで50分近く行列してしまいましたので。
最後に少し宣伝を。クロード・モネについて「まだよく知らないな」という方には朝日新聞出版『モネへの招待』、「もっと知りたい」という方には同『モネ 連作の情景 完全ガイドブック』をお勧めします。私も執筆協力させていただいたもので、手前味噌ではありますが、読みやすく面白い内容になっていると思います。どちらもAmazonなどで、また上記展覧会のショップでも購入できます。