新コラム【たまゆらあーと】Vol.4
美術史は書き換えられるか?「ヒルマ・アフ・クリント」の衝撃

皆さま、こんにちは。松井亜樹です。
『マダム・モネの肖像』(単行本2018年、文庫改訂版2020年、幻冬舎刊)では、クロード・モネと妻カミーユの出会いから別れまでを印象派誕生の軌跡と共に追いました。
こちらでは、開催中の展覧会やアートな話題をご紹介していきたいと思います。
4月9日から映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』が公開されています。

ヒルマは1862年、スウェーデン貴族の家に生まれた美しい女性画家。その彼女が、美術史を書き換えるのではないかと注目を集めているのです。


◆画像1:映画ポスター

初めて抽象画を描いたのは誰?

ヴァシリー・カンディンスキー。その名はご存知の方も多いことでしょう。これまで私たちの知る“正しい”美術史では、彼こそが1911年、西洋で初めて抽象画を描いた人物でした。 

ところが、ヒルマ・アフ・クリントは1906年には抽象画を描いていたのです。けれども彼女は「死後20年、私の作品を発表しないように」と言い遺して1944年に亡くなりました。やがて忘れ去られ、21世紀に入って再発見されたことで、「美術史は書き換えられるべきか」という議論に発展したのです。

そもそも、一体なぜ、生前の公表を拒んだのでしょう。
それはぜひ劇場で。

◆画像2:ヒルマ・アフ・クリント

目に見えない大切なもの

ヒルマの生家は代々海軍士官を務めた家柄で、ヒルマの父も、士官学校で教鞭を執っていました。彼は、数学や天文学、航海術を生徒たちに教えるだけでなく、聡明な娘ヒルマにも教えていたのです。

美術の世界では、1874年に第1回印象派展が開催されています。彼女が大人になる1880年代には、印象派が美術世界を席捲し、芸術は物体固有の色や形から次第に自由になりました。20世紀に入ると、フォービズム、キュビズムと並んでドイツ表現主義が起こり、中でもカンディンスキーらは抽象表現の先駆者と呼ばれるようになったのです。

そうした美術界の動向よりも、ヒルマにとって重要だったのは1887年の電磁波発見、1895年のX線発見、1905年の特殊相対性理論発表など、偉大な科学的発見が相次いだことでした。

そのどれも、人間が目で見て確かめることのできない、しかし確かに存在し、使いようによっては社会を豊かにしてくれる偉大な発見でした。科学の知識もあったヒルマは非常に関心を持ちます。「この世には目に見えない大切なものがある」。それは「目に見えるものだけを見えるままに描いていてはだめだ」という思いに繋がります。

これらの発見は、ヒルマだけでなく当時の知識人たちに、霊的な存在をも意識させます。目に見えない光線や原子などと同じように、神秘的な精霊なども存在するはずだと考えられたのです。ヒルマは神秘思想団体・神智学協会に加入しますが、それは当時の知識人にとって比較的ありふれたことでした。1867年ポーランド生まれのノーベル賞授賞物理学者マリ・キュリーらも参加していたといいます。

そうして彼女は、啓示を受け容れるように、心に浮かぶ形と色を描いていきました。


◆画像3:《グループⅣ The Ten Largest No.7》「大きな力が私を通して描いた」とヒルマは
     語った

これまでの芸術を超えて

ヒルマは、スウェーデン王立美術院を首席で卒業し、専用のアトリエを与えられた優れた芸術家でした。

フランスの国立高等美術学校が女子生徒を受け入れるようになったのが1897年ですから、スウェーデンは随分先進的です。ただそこには、貴族の娘たちが結婚するまでの生業を与えようという国の意図がありました。彼女たちのアートは、「お嬢さんたちの結婚までのお遊び」程度に考えられていたのです。

授業では、女生徒が男性の完全な裸体を描くことは禁じられていましたし、彼女たちが描いていたのは学術書の挿し絵など、やはり一級のアートとは異なるものでした。それでも、彼女はそうした写実的な風景画や肖像画、またイラストなどで、一時はかなりの収入を得ていたといいます。ただ、どうしてもそこにとどまることができず、それまでのどの作品とも似ていない抽象画の制作に没頭し始めます。


◆画像4

幸か不幸か

印象的なエピソードがあります。
彼女には、思いを通じ合った男性がいました。ところが彼が求婚すると、「私の中に私を前進させる力があり、結婚や家庭という幸せは私にとっての運命ではない」と拒絶したのです。

妻になり母になり求められることの多さと、何事かの一流人になること。この狭間で女性たちは悩み、家庭を選ぶ人は少なくありません。彼女は前者を捨てることで、後者を選ぼうとしたのでしょう。カミーユ・クローデル、ガブリエレ・ミュンター、才能ある男性芸術家に翻弄された女性芸術家たちのことを、ふと思い出しました。

ところが、まだ大きな障壁があったのです。
恐らくはいまだにそうなのですが、一流と呼ばれる女性のアーティストは非常に少ない。アーティストだけでなく、社長も料理人も“一流”はいつも男性のものでした。一流のアートは男こそが担うもの。その見えざる壁が、ヒルマの「遅れてやって来た」理由でもあります。

彼女は晩年、世の中に自分のアートを認めさせることを、少なくとも生きている間は断念したようです。慎ましく暮らしながら、世間の評価とは関わりなく、自分のめざすアートを生み出し続けました。それを、ある人は「幸せだった」と言い、評価されなかったことを「不幸だ」と言う人もいます。

「死後、20年私の作品を発表しないように」と遺言したのにはいくつかの理由が考えられ、映画の中で語られます。ただ、もし生前にそれらの作品を発表し、女性であるが故、前例のない作風であるが故、酷評に晒されていたとしたら、その時点で完全に歴史から抹殺され、今日このように世界中で彼女の作品を鑑賞する機会はなかったかも知れません。


◆画像5:展示風景

今、ヒルマの作品が語るもの

死後70年ほどを経て、突如として世界に発見されたヒルマの作品は各地で評判を呼び、2018~2019年ニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された回顧展では同館史上最高となる約60万人の動員を記録しました。彼女の作品に囲まれた観衆は、思わず涙する人、微笑む人、陶酔する人などさまざまな反応を示したといいます。

のびやかな線と形、美しい色彩。彼女が残した抽象画の中には、私たちが見慣れた花や貝のようなモチーフも少なからず描かれています。文字や記号のようなものがところどころに現れ、これは何かのメッセージに違いないと思わせます。この世を司る真理のようなものを描き表そうとしたのではないでしょうか。

この映画を観ていて何とももどかしいのは、作品の実物を観られないこと。その作品の並ぶ空間に立ったら、現代を生きる自分は何を感じるでしょう。疫病が蔓延し、恐ろしい戦争が人々の命をいとも簡単に奪う現在、時を超え、彼女の伝えたかったメッセージを受け取ることができるでしょうか。

いつかきっと、と願わずにはいられません。

◆画像6